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八百屋お七の話

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目次

市中引き回しの話の続き

前回のブログ(東京・両国の街をチャリンコでぷらり)で、

市中引き回し(しちゅうひきまわし)の話がでて、

引き回された人
八百屋お七 - 伝馬町から鈴が森刑場
鼠小僧 - 伝馬町から小塚原刑場

を紹介したので、八百屋お七の話をしようと思ったわけですが、

2013年秋に木曜時代劇「あさきゆめみし~八百屋お七異聞」というドラマが、

前田敦子さんの時代劇初主演、脚本はジェームス三木さんでやっていたんですね。

このドラマの話はどういったものかはわかりませんが。。

そしてあさきゆめみし八百屋のお七では時代がずれずれなのですが。。。

ちなみに、鈴が森刑場は品川区南大井、小塚原刑場は荒川区南千住です。

八百屋お七の話

大体Wikipediaからの情報なのでアレなんですが、あらすじをいうとこんな感じです。

お七の家は1683年1月の火事(天和の大火)で焼け出され、お七は親とともに正仙院に避難した。

寺での避難生活のなかでお七は寺小姓生田庄之介と恋仲になる。

やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、お七の庄之介への想いは募るばかり。

そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、

庄之介に会いたい一心で自宅に放火した。

火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまったが、

お七は放火の罪で捕縛されて鈴ヶ森刑場で火あぶりに処された。

おのお七が生きていたのは1668年-1683年ということですから、

当時お七は15歳程度の子供ってことになります。

まぁもう一度家が火事になれば好きな人ともう一度会えるかも!

というかわいい発想はやはり子供ですね。

そして火事があったのも1683年ってことは、

火事があって、新しい家で放火して、死刑にされてしまうまで数ヶ月

ってところも驚きの部分です。

どうでしょう。。

15歳の子供がボヤを起こしたため、刑場まで公開で連行されて火あぶりで死刑って。

このお七の話は、井原西鶴の「好色五人女」で取り上げられており、

浄瑠璃や歌舞伎などの芝居の題材となり、浮世絵、文楽(人形浄瑠璃)、日本舞踊、小説、落語や映画、演劇、人形劇、漫画、歌謡曲等さまざまな形で取り上げられているそうです。

Wikpedia情報だけど。

現代の「八百屋お七」の物語では落語などを中心に「当時の江戸では火付け犯は15歳を過ぎれば火あぶり、15歳未満は罪を減じて遠島の定めだった」とし、お七の命を救ってやりたい奉行がお七の年齢をごまかそうとして失敗するものが多い。(中略)

放火犯について15歳以下ならば罪を減じて遠島(島流し)にする規定が明確に設けられたのはお七の死後40年ほどたった徳川吉宗の時代享保8年(1723年)になってである。(中略)

ただし、享保8年(1723年)以前にも年少の殺人犯については死罪は避けようという諸規定は存在したが、放火犯については明確な規定は無く、また『天和笑委集』第10章では13歳の放火犯喜三郎が火刑になった記述がある。

Wikipedia

要するに、放火は火あぶりの刑と決まっていて、年齢に関する明確な規定がなかった。

だから放火した人はそればボヤであれなんであれ死罪。

ってことなんでしょう。

江戸も初期の時代。

かわいそうですね。

このかわいそう感が一つの物語として人の心をうったのでしょう。

今でも語り継がれるわけですね。

お七のゆかりの地として、一家が避難した寺や墓所がWikipediaに解説があるので

興味のある方は読んでみてください。

江戸も初期の時代の話ですから、いろいろな説が出てきてもおかしくないですね。

単なる死罪ですら死体は俵に入れて本所回向院の千住の寮に埋めるに留まるが、その死罪よりも重罪である火刑者が墓に葬られることは許されるはずも無いと矢野は指摘している。仮に家族がこっそり弔うにしても、寺に堂々と墓石を立てることはありえない。

というのもまぁもっともだなぁとも思いますし。

お七・吉三郎の比翼塚 (文京区・吉祥寺)
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八百屋お七の墓 (東京都文京区・円乗寺)
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Wikipedia

そうは言ってもこれら文京区には興味があるので機会があれば実際に足を運んでみたいと思います。

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